Author: 菊池朋之(Tomoyuki Kikuchi)
近年、経済安全保障という考え方が急速に広まり、民間企業自身も対応を進めなければならない重要なリスク領域となりつつあります。しかし、経済安全保障分野において民間企業が果たすべき役割は多岐にわたり、比較的新しい分野のためその実態は必ずしも明確ではありません。本稿では、経済安全保障そのものを概説した上で、民間企業にとっての経済安全保障リスクとはどのようなもので、求められる対応のアプローチについて検討しています。
経済安全保障という言葉自体は、経済的手段を用いて安全保障上の目的、つまり国益の維持と増進及び国家の安全の確保を達成することであるといえます。経済的手段を用いた安全保障政策上のアプローチは、近くは米ソ冷戦期、古くは古代ギリシャの時代にも見られました。では現在の経済安全保障にはどのような特徴があるのでしょうか。ソ連の崩壊により計画統制経済の失敗が明らかとなり、自由主義経済システムが世界に拡大し、少なくとも国際通商においては普遍的なものとなりました。国際経済システムの自由主義化はヒト・モノ・カネ、そして情報の国際的移動の活発化を促し、経済的合理性の下で国際分業体制が進展し、各国経済の相互依存関係の深化をもたらしました。しかし、2010年代以降、米中間の対立構造が明らかになるにつれ、過度な相互依存関係は安全保障上の不利益となるとの指摘が各国の安全保障政策の分野で指摘されるようになりました。特に、2018年に顕在化した米中通商対立と、2020年に発生した新型コロナウイルスは経済システムそのものの脆弱性を示しました。経済安全保障とは、そのような流れの中で生じた比較的新しい政策概念です。
経済安全保障という概念の中身は経済、政治、外交、技術、軍事等に関連する多種多様な政策や議論が含まれる多分野を包摂した課題と言えます。従って、様々な分野の専門家や政策担当者がそれぞれの角度から議論や発言をしているため、経済安全保障という問題そのものの全体像を把握することが難しくなっており、より実務的には組織ごとに異なる優先的に対応すべき課題の整理が困難になっています。日本政府は各国政府の政策に倣い、経済安全保障政策の強化を打ち出しているものの、グローバルに事業活動を行う多くの企業にとって、経済安全保障に関連するリスクは既に顕然しており、事業の継続や将来の成長に関わる重要なリスクとなっています。
日本における「経済安全保障」の現在地
本稿を執筆している2021年12月時点で、これまでの政権以上に経済安全保障問題を重視する岸田首相の下、11月に第一回の経済安全保障推進会議が開催され、国会においても経済安全保障関連法令の制定や政府内司令塔組織の新設が議論されています。こうした日本国内における現代の経済安全保障問題の政策的萌芽は、第一次安倍政権下に策定された2013年の国家安全保障戦略に見出すことができます。経済安全保障という文言自体は使用されていないものの、安全保障政策における経済的手段の重要性を述べており、これが日本国内における現在の経済安全保障に関する政策的議論の素地になっています。
上述したような米中間の通商対立や国際経済システム全体の不確実性の高まりを受け、自由民主党は2020年6月に自民党政務調査会の内部組織として、新国際秩序創造戦略本部を立ち上げ、2020年12月に政策提言文書「『経済安全保障戦略』の策定にむけて」を策定しました。同提言では、国際社会の安全保障環境の変化に対応するため、16の重点課題を挙げ、国家として国益を経済的な面からいかに実現していくかという一貫した視点に基づいた政策の整理と実現の重要性を述べています。
今年の6月の「経済財政運営と改革の基本方針2021(骨太方針2021)」では、成長の基盤となる政策課題の一つに経済安全保障の確保を挙げ、省庁間連携やインテリジェンス能力の強化、新たな制度設計を含めた措置を講じていく必要があると述べています。さらに、経済産業省が今後経団連参加企業などの国内大手企業に対して、経済安全保障担当役員の設置を要請する可能性があることも2021年の5月に報道されています。経産省自身も2019年5月に大臣官房内に経済安全保障室を新設し、今年6月に閣議決定された令和3年度版通商白書において、はじめて重要な政策課題として経済安全保障を記載し、世界的な経済安全保障強化の流れに対応するため、サプライチェーン等の経済的強靭性と産業競争力の強化の重要性を指摘しています。
現在、日本政府は様々な経済安全保障関連の政策を検討しており、2022年度以降、実行に移されていくことが予想されます。しかし、日本の制度設計上、米国や中国のように強力な政府権限に基づいた、企業活動の規制強化や政策の柔軟な対応が必ずしも可能であるとはいえません。翻って言えば、日本では企業自身が経済安全保障問題の最重要アクターであり、組織全体で主体的に対応をしていくことがより強く求められていると言えます。
経済安全保障リスクの多様性
日本国内では過去の政策的経緯から、経済安全保障と安全保障輸出管理が同一視される傾向にありますが、安全保障輸出管理は経済安全保障問題を構成する重要な要素ではあるものの全てではありません。上述の「経済財政運営と改革の基本方針2021」における、経済安全保障に関するセクションでは以下の様な項目が列挙されています。
- 先端的重要技術の実用化、情報技術の保全、投資審査強化、企業や研究・教育機関におけるみなし輸出等の内部管理体制強化とイノベーション促進の両立、インフラ機能の維持等に関する安全性・信頼性の確保、サプライチェーンの強靭化、土地利用状況の調査、重要技術・物資の生産・供給能力の国内確保、政府内インテリジェンス機能の強化、経済安全保障関連制度の整備
上記の項目だけを見ても、企業活動のほぼ全領域において経済安全保障上の対応課題が存在することが分かります。例えば民間企業の各部門に関連する主なものでも、経営企画部門ではM&Aやサプライチェーンの見直し・強化、研究開発部門は研究情報の保全と先端技術の開発促進、営業・販売部門では技術管理や取引先・エンドユーザーのチェック体制強化、法務・税務では資産保有比率の再確認や規制強化への対応、人事部門では重要品目に関する研究開発人材育成の更なる強化や外国籍人材の多様性に配慮した情報流出やみなし輸出対策、等が経済安全保障に関連した課題として挙げられます。
そして、対象となる業種・業界も多岐にわたっており、例えば米国は2020年に発表した重要新興技術戦略(C&ET戦略)において、20の重要技術を発表しており、中国は2015年に発表した中国製造2025において国内生産強化を進める10の対象セクターを指定しています。
米国:C&ET戦略の対象技術
- 先端コンピューティング、先端在来型武器技術、先端エンジニアリング素材、先端製造、先端センサー、航空エンジン技術、農業技術、人工知能、自動化技術、バイオ技術、化学・生物・放射線物質・核(CBRN)軽減技術、通信・ネットワーク技術、データサイエンスおよびストレージ、分散型台帳技術、エネルギー技術、ヒューマン・マシン・インターフェース、医療・公衆衛生技術、量子情報科学、半導体・微細電子工学、宇宙技術
中国:中国製造2025の重点強化産業備
- 次世代情報通信(5G)技術、航空・宇宙、最先端のデジタル制御工作機械・ロボット、先端鉄道技術、海洋エンジニアリング装備とハイテク船舶、省エネ自動車・次世代自動車、電力(次世代発送電)装備、新素材、農業機械、バイオ医療・ハイテク医療設備
上記の米中が指定する技術・産業分野の類似は明白ではありますが、これらのセクターは日本政府が経済安全保障の観点から重視する分野とも重複しています。そして、経済安全保障が、今後多様な経済活動に影響を及ぼしていくことが分かります。これらの経済安全保障に含まれる多様なリスクには、企業に損失をもたらすネガティブ・リスクもあれば、新たな事業機会や成長をもたらすポジティブ・リスクの両側面があります。加えて、国内起因のリスクと国外起因のリスクの両方を経済安全保障という共通の視点で考慮しなければならないのも、経済安全保障の特徴であると言えます。ネガティブ・リスクとポジティブ・リスク、国内起因と国外起因、この二つの軸で民間企業にとっての経済安全保障上のリスクを概観すると、主要なリスクについて下記のように整理することができます。
- 経済制裁等の外国政府による各種規制:米国のOFAC規制やBIS規制、国際制裁措置
- 機微技術の流出防止:軍民両用品目や機微技術の輸出管理、デミニマスルールへの対応、人材管理
- サプライチェーンの脆弱化:グローバルなサプライチェーンネットワークの停止や遅延
国外起因×ポジティブ・リスク
- 第三国への新規参入:国家間の「経済的競争」により企業の第三国への進出やサプライチェーンの見直しにより生じる第三国への投融資機会の増加
- 技術協力や防衛装備品:友好国への防衛装備品の輸出推進や機微技術の技術供与機会の増加
- ルール・規格形成:セキュリティクリアランスや技術規格の導入による市場競争力の強化
国内起因×ネガティブ・リスク
- 産業知財や個人情報の脆弱化:軍事転用可能な技術や先端技術情報の脆弱化、サイバー攻撃の増加
- 重要品目の内製化:機微技術製品の内製化の要請、特定原産地の原料や部品の使用不可
- 国内法令対応:経済安全保障上のガバナンス強化に関する政府支持や各業界主管省庁による様々な法令・規制変更
国内起因×ポジティブ・リスク
- 先端技術企業の国内誘致:重要な戦略的品目の生産施設や研究開発施設の国内誘致
- 研究開発投資:代替技術や新規技術への補助金等の研究開発支援、新規技術獲得による市場競争力の強化
- 人材育成:国際競争力の高いグローバル人材の育成
民間企業における経済安全保障への対応のアプローチ
以上のように、多様なリスクの要素を含む経済安全保障に対して民間企業はどのように対応していけばよいのでしょうか。岸田首相は経済安全保障問題に積極的に取り組むことを表明しており、今後新たな立法措置や企業に対しても様々な要請が行われることが想定されます。経済産業省が求めていくとされる経済安全保障担当役員の設置如何にかかわらず、企業活動の様々な領域において対応が求められる経済安全保障に関する問題については、組織内の関係部門・部署を統括し、かつ経営の意思決定につなげる司令塔機能が非常に重要です。そして経済安全保障を担う役員や部門は不断に変化する国内外の情勢や地政学的リスクをオンタイムで的確に把握し、経営企画、営業、国内外法務や税務・通関、人事、といった各種専門分野の知見を結集して、柔軟に対応していくことが求められます。そのうえで、新たな取り組みを進めるというより、下記のような観点を踏まえながら従来のリスクマネジメントサイクルや意思決定プロセスに、新たに経済安全保障の観点を組み込みことが重要であると言えます。
従来のガバナンス体制を経済安保の観点から見直す際のポイント
1. 現状把握:経済安全保障に関する部署、プロセス、事業領域の棚卸し
2. リスクの分析と把握:自社に関連する政治、外交、経済などの外的リスク要因を迅速かつ客観的に収集し、意思決定に反映する仕組み作り
3. リスクシナリオの策定:経済安全保障に起因する環境変化シナリオを作成、対応策・レッドラインの設定
4. リスク軽減措置の検討:ネガティブリスク(脅威)とポジティブリスク(機会)に対する正確な分析、リスクトリガーのタイムリーな発出
5. インシデント対応:経済安全保障リスク顕在時のバックアッププランの整備・実行
経済安全保障に関するリスク環境は米中対立の長期化を前提として、本稿でご紹介した様々なリスクが顕然し、経営上重要な意思決定が求められる機会が増大することが想定されます。まず、自社にとっての経済安全保障リスクとは何なのかを現状把握とリスク分析を通じて明確にし、想定されるリスク環境の変化シナリオを発生可能性の高い複数の独立変数に基づいて検討した上で中長期の戦略的方針を定め、個別のリスクに対する具体的な軽減措置や対応方法を定めていくことが求められます。
これら経済安全保障関連リスクへの対応を検討する上では情報の最新性、客観性、専門性、信頼性が非常に重要です。経済安全保障関連のリスク環境が国際情勢や各国の個別政策に大きく影響を受ける以上、自社事業に関連する各国の政策や規制動向、外交関係などの最新情報を常に得られる体制が無ければ、ネガティブ・リスクへの対応の遅れやポジティブ・リスクにより生じる事業機会を見落とす可能性があります。情報分析の世界において、客観性の担保は常に重要な課題であり、経済安全保障の問題においても様々なバイアスを排除したリスク分析や情報収集が求められます。上述の通り、経済安全保障には様々な課題領域とセクターが含まれることから、得られた情報を様々な専門的知見から自社事業のどの領域に影響するのかを検討することが求められます。そして、アクセス可能な情報量が増大する現代において、情報そのものの信頼性を担保するための適切なファクトチェックの実施や、事実、予想、噂、偽り等にそれぞれに分類し整理することが求められます。そして、これらの情報を得たうえで、経済安全保障に関連したリスクについて組織全体を俯瞰した多角的視点で検証し、多岐にわたる分野を包摂した意思決定と中長期戦略の策定をするための強固な体制が求められます。
当社はグローバル規模のリスク専門のコンサルティング・ファームとして、情報提供、情報・脅威分析、取引先や投融資先に関する各種調査、リスクマネジメント体制強化、インシデント対応、リスクベースの戦略策定、脆弱性分析等の支援を世界各地の拠点に所属している2,500名超の各分野の専門家がご支援しています。また、常にクライアントの皆様とってベストなメンバーをグローバルで検討し、チームを招集しています。下記は経済安全保障に関連してご提供した、ご支援事例になります。まずは当社までお気軽にご連絡を頂き、貴社のご懸念や状況等をお聞かせ下さい。
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企業にとっての経済安全保障問題とは、国際社会の変化に対する事業の強靭性を確保し、持続可能な成長を達成するために対応すべき包括的なリスクであると言えます。そして、民間企業も国内外の社会全体に重要な影響力を有するアクターとして、経済安全保障に関連するリスクに対して主体的に取り組むことが、社会や株主に対する企業の責任となっています。