2025年6月13日、中東情勢は予期せぬ方向へと大きく動きました。イスラエルがイランの核関連施設、通常戦力、軍幹部や核科学者を標的にした大規模な先制攻撃を実施したのです。これに対して、イランも同日中にイスラエル国内へのミサイル・ドローン攻撃で応戦し、両国は12日間にわたる軍事衝突に突入しました。この事態は、中東地域にとどまらず、国際社会全体を巻き込む深刻な緊張を引き起こす結果となりました。
そして、中東地域だけでなく、今後複数国が巻き込まれかねない有事に対応する難しさを、改めて浮き彫りにしました。とりわけ日本企業にとっては、正確な情報の収集と分析、過剰反応を避けながら迅速に意思決定を行うこと、そして事業継続とのバランスをいかに保つかが、今後の重要な課題となります。本記事では、この一連の事態から企業が学ぶべき教訓を整理し、将来のリスクに備えるための具体的な方策を解説します。
事態の推移
- 2024年:軍事的緊張
2024年4月と10月には、イスラエルとイランの間で軍事的な緊張が高まり、イスラエルのテルアビブやイランのテヘランに駐在する日本企業の関係者が一時的な退避を余儀なくされました。特にテヘランでは、セキュリティインフラの脆弱さから退避が強く推奨されていました。一方、イスラエルでは、過去の実績やシェルターの整備状況を踏まえ、退避の緊急度は相対的に低く判断されました。
この時期には、周辺国(イラク、クウェート、ヨルダン、シリア、レバノンなど)への出張も見直され、航空便の混乱や帰国困難リスクを受け、慎重な対応が求められました。一部の企業では、最小限の要員を残して拠点を近隣国に移したり、近隣国からのリモートでの勤務に切り替えるなど、事業継続を前提とした柔軟な対応を進める動きも見られました。
- 2025年6月:急激な事態悪化
2025年6月、米国がイランの核施設攻撃を検討しているという情報が報じられると、情勢は急速に緊迫。米国政府が一部の中東在住外交関係者らに退避勧告を出したこともあり、企業の間に不安が広がったものの、実際には多くの駐在員が現地にとどまっていました。その結果、イスラエルの先制攻撃により航空便が停止し、イランからの退避が困難になるケースが相次ぎました。特に、出国を予定していた日本人駐在員らが足止めを余儀なくされるなど、想定外の混乱が生じました。
その後、日本政府は外務省および在外公館と支援体制を構築し、イランからアゼルバイジャン、イスラエルからはヨルダンへの陸路での退避支援を実行しました。ビザ関連で一部の遅延はあったものの、比較的スムーズな退避が行われました。
日本企業が直面した課題
- 情報の不確実性
こういった状況下で最も大きな課題となったのは、正確な情報が極めて限られていたことです。未確認の噂や過度にあおる報道が混在する中で、企業は対応・判断に苦慮しました。例えば「攻撃は2週間後」という根拠が曖昧な情報が流れたものの、実際には数日後に攻撃が始まりました。
また、緊張が高まっていたのは特定の地域だったにも関わらず「中東全域が危険」といった過剰な印象を与える報道も見られました。これは、東京の一部地域での混乱を「東京全体が危険」と報じるような誤解を招く構図と同様です。
- 安全配慮と事業のバランス
湾岸諸国(カタール、UAE、バーレーン、クウェートなど)では、戦闘が発生していないにも関わらず、多くの日本企業が駐在員や家族の退避を決定しました。これは、経営トップが従業員の生命・安全を第一に考える姿勢を明確に示しており、十分な妥当性を有していたと考えます。しかし、一部では「他社が退避を始めた」という情報が連鎖的に広がり、判断を加速させた側面も否定できません。その結果、実際には被害が出なかった地域においても、やや極端とも言える退避行動が取られたケースがありました。
全面的な退避は、現地の事業に混乱をもたらすだけでなく、現地政府との関係にも影響を及ぼす可能性があります。特に、全面的な退避という判断は、地元当局に不信感や「日本企業はすぐに引き上げる」といった印象を与えかねません。過去にも、このような背景からビザ取得が困難になった事例が報告されています。また、日本人駐在員の退避により、現地スタッフが対応を強いられるケースでは、長期的に見ると、現地におけるチームワークの維持や業務継続の観点で懸念が残ります。
- 帰任判断の難しさ
退避判断は迅速だった一方で、「いつ現地に戻すか」という判断については多くの企業で基準が不明確でした。空域が開放された後も、外務省の危険情報レベルが下がらない限り再入国は難しいとの認識が広がり、一部の日本企業では駐在員が現地に戻れない状況が7月中旬まで続きました。このように「退避よりも復帰の判断の方が難しい」という点も、今後の重要な検討課題といえるでしょう。
得られる教訓:企業はどう対応したらよいか
- 早めの情報共有と現地への権限委譲
有事の際には、本社と現地間の情報共有を可能な限り早期から行い、現地が把握している情報を入手するとともに、現地駐在員の懸念や意向を把握し、意思決定を行う際の参考にする姿勢も重要です。また、戦闘やインフラ障害などによって現地との通信が途絶する可能性も想定し、現地スタッフが一定の裁量で自律的に行動できるよう、事前に判断基準や権限の委譲およびその範囲を明確にしておく必要があります。
- 健全な危機意識とデューティ・オブ・ケア
紛争や災害といった不安定な状況下では、現地の状況を「正確かつ完全に把握」できる立場にあるのは、ごく限られた為政者や当事者などに限られます。第三者が得られる情報には常に限界があり、完全な信頼性・透明性は期待できません。そのため、不確実な情報に基づいた軽率な判断や、楽観的な予測は避けるべきです。常に最悪のシナリオを想定しつつも、冷静かつ慎重な判断が求められます。
安全を最優先とした迅速な対応は、危機管理の基本原則であることに疑いはありません。しかし、過度に反応することで、現地の事業に深刻な影響を及ぼすような意思決定を行ってしまうリスクも見過せません。たとえば、早計な退避判断や拠点閉鎖などが繰り返されれば、「またか」という空気が社内外に広がり、いわゆる「狼少年」的な心理状態が生じます。その結果、本当に退避しなければならない局面で判断が遅れたり、現場の危機意識が低下したりするリスクにつながります。
このような困難な状況において、企業の危機管理責任者にはデューティ・オブ・ケア(安全配慮義務)を果たすことが強く求められます。このため、信頼性の高い情報を多角的に収集・分析し、状況を冷静に見極めたうえで、的確かつ時には困難な判断を行う覚悟が必要です。
同時に、その判断を一人の担当者の責任に委ねるのではなく、経営層がその判断の重みと根拠を正しく理解し、必要に応じて適切に支援する体制を整えることも不可欠です。組織としての危機対応力を高め、健全な危機意識を維持することが、今後ますます重要になるでしょう。
- 第三者の情報活用
過度な危機意識や誤った情報に基づく判断を避けるためにも、外部の専門家や信頼性の高い情報サービスの知見を積極的に活用することが重要です。自社内の限られた視点や、過去から継続する固定観念に基づいた判断では、「中東一括り」などのように、地域の実情を不正確に認識してしまう危険性があります。現地の専門家ならではの客観的かつ詳細な情報は、企業の過剰な反応を抑制し、冷静で的確な判断を促すうえで極めて有効です。
コントロール・リスクスでは、このような不確実性の高い環境下において、企業の皆様が迅速かつ適切に判断できるよう、グローバルネットワークを活かした情報提供とコンサルティング支援を行っています。24時間365日体制のリスク・セキュリティ対応支援や、AIを活用したリスク情報モニタリング「Seerist」など独自のサービスも提供しています。
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